第6日目カロー散策
2日間ゆっくりとニャウンシェの滞在を楽しみ、今日はカローへ移動です。タイミング良く8時半に宿の前からアウンバン行きの乗合トラックが出発です。始発ですから、席をしっかりと確保することが出来、しかも料金は地元の人と同じ300チャットです。これだと、乗り換えは一度で済み、短時間で移動できます。およそ2時間のラインカーの旅は日本のオバサマにとって初めての体験です。人と荷物を満載した庶民の足は高らかに発車オーライ、トンは屋根の上に乗るのが大好きです。ラインカー試乗こそミャンマーの人々の生活を知る貴重な手がかりとなります。どんなに満員でもたくみに客を詰め込んでいく技術に感服します。そして、老若男女がそれぞれの立場をわきまえて譲り合うという微笑ましい光景を目前にすることが出来ます。若いお兄さん達は混雑してくると屋根に自分の場所を確保します。お年寄りや女性には必ず席が割り当てられていくのです。車内は平和そのもので皆和やかな雰囲気に包まれています。日本の満員電車は皆無言でヘッドフォンを耳にあてている人、新聞に目を通している人、そして全員の顔が引きつっています。それに比べるとここ、ミャンマーの超満員ラインカーは雲泥の差を感じてなりません。
そんな和やかな車内に身を寄せているともう終点アウンバンに到着です。ここで、この州の名物料理シャンカオソエという麺料理に挑戦です。一杯100チャットですから20円です。全体の分量は少ないのですが、具沢山で日本のうどんに似た味がします。ここからは20分ほどで今日の目的地カローに入ることが出来るのです。ラインカーもいくつかタイプがあります。大きな町同士を結ぶ車両は比較的新しい車両ですが、小さな町を走る短距離のラインカーはランクが下がりボロさが一段と低下してくのが常です。案の定、ここから先のラインカーはこれでも車?動いてくれるかなと心配になるような代物でした。しかも、車掌のドレスもぼろぼろ、シャツの背中がぽっくりと破れたままです。そんなことはもうお構いなしです。乗り物は動けば最高、車掌は料金を徴収して客をうまくさばいてくれると十分です。どうも日本の国は必要以上に安全、清潔をうたったが為に物価上昇を招いたのではないでしょうか?
さて、ここカローはミャンマー国内でもネパール系住民やインド系住民が多く住んでいる特殊な町です。英国植民地時代には避暑地として栄えた町ですから、何となく垢抜けした町の雰囲気があります。仏教寺院、回教寺院そして教会が共存し平和の里の見本とそのものです。今はこの標高1300メートルのカローはベストシーズンで、暑くもなく寒くもなく、日本の初夏に似た気候です。周囲には松林があり、どことなく景色も日本のそれと同じものを感じます。まずはバス停近くのネパール系喫茶店ラクシュミにご挨拶です。カローには友人が沢山います。早速ネパール語でご挨拶です。これには周囲の人々もびっくりです。インドのシーク教徒の友人にはヒンズー語で、南インド系のタミル人のガイドにはタミル語でご挨拶ということで、私の頭の中はごっちゃになっていきますが、それが又楽しみの一つになっていきました。いつも投宿するゴールデンリリィはトイレつきの部屋は満室でパラミモーテルに変更です。料金交渉もすんなり運び、こぎれいな部屋は一人4ドル、ミャンマー人のトンは1500チャットで利用できます。彼も始めてのリッチな宿に興奮しています。まるで王子さまになったように喜んでいます。
第二次世界大戦の時に日本軍はミャンマーにも侵攻しましたから、年配の人々の中には日本語を話す人も多くいます。多くは片言の日本語ですが、そんな中でウラミンさんは今もきれいな日本語を話す一人です。時々、日本からの戦跡巡礼団の世話をしたり、日本語教室を開いたりしています。時々日本にも出かけることがあるウラミンさんとはもう5回目になる気心知れた仲になりました。予告も何もない突然の訪問に驚きもあったでしょうが、お茶をご馳走になり、初対面のオバサマたちとの話も弾み、楽しい時間が過ぎました。明日はこの町から列車を利用してマンダレー方面に向う計画です。トンと連れ立って私は駅へ明日の列車の予約です。その間オバサマ達はウラミンさんと話に熱中です。
夕方は裏山へ夕日を見に出かけることになりました。トンの村にも小高い丘があり、時々森林の切り出し作業などもしているとの話です。彼は池に放たれた魚が息を吹き返したがごとく山の中を歩き回っています。オバサマは写真をとるのが面倒なのでトンにカメラを預けてしまいました。本人は興味しんしんでバチバチ写真をとるのにご機嫌です。あたかも一つの家族のように時間が過ぎていきました。
次第に私達の心の絆が深まると共にトンの口からたどたどしい日本語が出てきました。そしてオバサマたちからは片言のミャンマー語が出てきました。ミャンマー語は声調があって発音は難しい部分があります。しかし、口に出して何度も発音してみると少しは分かるようになります。こうして、夕食時はミャンマー語会話教室も併設されることになったのです。そんなミャンマー語の中で私達に覚えやすい文章もあります。オノサーレは分からない、パイサーレは腹が減った、ヤバレーが大丈夫という意味です。今日は生活必需文の3つを覚えることになりました。一方トンは私達の会話に日本語特有の語尾「ね」に注目したようで、何でも最後に「ね」を付けるようになりました。「おはようね」と彼が発声異したときには笑いこけてしまいました。今日は夕食後も会話熱が高まり、更に一軒喫茶店をまわりミャンマー会話教室が続きました。
そんな和やかな車内に身を寄せているともう終点アウンバンに到着です。ここで、この州の名物料理シャンカオソエという麺料理に挑戦です。一杯100チャットですから20円です。全体の分量は少ないのですが、具沢山で日本のうどんに似た味がします。ここからは20分ほどで今日の目的地カローに入ることが出来るのです。ラインカーもいくつかタイプがあります。大きな町同士を結ぶ車両は比較的新しい車両ですが、小さな町を走る短距離のラインカーはランクが下がりボロさが一段と低下してくのが常です。案の定、ここから先のラインカーはこれでも車?動いてくれるかなと心配になるような代物でした。しかも、車掌のドレスもぼろぼろ、シャツの背中がぽっくりと破れたままです。そんなことはもうお構いなしです。乗り物は動けば最高、車掌は料金を徴収して客をうまくさばいてくれると十分です。どうも日本の国は必要以上に安全、清潔をうたったが為に物価上昇を招いたのではないでしょうか?
さて、ここカローはミャンマー国内でもネパール系住民やインド系住民が多く住んでいる特殊な町です。英国植民地時代には避暑地として栄えた町ですから、何となく垢抜けした町の雰囲気があります。仏教寺院、回教寺院そして教会が共存し平和の里の見本とそのものです。今はこの標高1300メートルのカローはベストシーズンで、暑くもなく寒くもなく、日本の初夏に似た気候です。周囲には松林があり、どことなく景色も日本のそれと同じものを感じます。まずはバス停近くのネパール系喫茶店ラクシュミにご挨拶です。カローには友人が沢山います。早速ネパール語でご挨拶です。これには周囲の人々もびっくりです。インドのシーク教徒の友人にはヒンズー語で、南インド系のタミル人のガイドにはタミル語でご挨拶ということで、私の頭の中はごっちゃになっていきますが、それが又楽しみの一つになっていきました。いつも投宿するゴールデンリリィはトイレつきの部屋は満室でパラミモーテルに変更です。料金交渉もすんなり運び、こぎれいな部屋は一人4ドル、ミャンマー人のトンは1500チャットで利用できます。彼も始めてのリッチな宿に興奮しています。まるで王子さまになったように喜んでいます。
第二次世界大戦の時に日本軍はミャンマーにも侵攻しましたから、年配の人々の中には日本語を話す人も多くいます。多くは片言の日本語ですが、そんな中でウラミンさんは今もきれいな日本語を話す一人です。時々、日本からの戦跡巡礼団の世話をしたり、日本語教室を開いたりしています。時々日本にも出かけることがあるウラミンさんとはもう5回目になる気心知れた仲になりました。予告も何もない突然の訪問に驚きもあったでしょうが、お茶をご馳走になり、初対面のオバサマたちとの話も弾み、楽しい時間が過ぎました。明日はこの町から列車を利用してマンダレー方面に向う計画です。トンと連れ立って私は駅へ明日の列車の予約です。その間オバサマ達はウラミンさんと話に熱中です。
夕方は裏山へ夕日を見に出かけることになりました。トンの村にも小高い丘があり、時々森林の切り出し作業などもしているとの話です。彼は池に放たれた魚が息を吹き返したがごとく山の中を歩き回っています。オバサマは写真をとるのが面倒なのでトンにカメラを預けてしまいました。本人は興味しんしんでバチバチ写真をとるのにご機嫌です。あたかも一つの家族のように時間が過ぎていきました。
次第に私達の心の絆が深まると共にトンの口からたどたどしい日本語が出てきました。そしてオバサマたちからは片言のミャンマー語が出てきました。ミャンマー語は声調があって発音は難しい部分があります。しかし、口に出して何度も発音してみると少しは分かるようになります。こうして、夕食時はミャンマー語会話教室も併設されることになったのです。そんなミャンマー語の中で私達に覚えやすい文章もあります。オノサーレは分からない、パイサーレは腹が減った、ヤバレーが大丈夫という意味です。今日は生活必需文の3つを覚えることになりました。一方トンは私達の会話に日本語特有の語尾「ね」に注目したようで、何でも最後に「ね」を付けるようになりました。「おはようね」と彼が発声異したときには笑いこけてしまいました。今日は夕食後も会話熱が高まり、更に一軒喫茶店をまわりミャンマー会話教室が続きました。